山形県神社庁

案山子と神の関わりについて

案山子(かかし)は日本だけに存在するものではなく、世界中にその存在が認められていることは多くの方が御承知のことと思う。ご当地「かみのやま温泉全国かかし祭り」においては、諸外国から幾度も協賛参加の実績があるので、実際に見た方も少なくないだろう。呼び名もそれぞれの国の言葉で呼ばれていることは当然だが、その意味するところは、カラスなどを追い払うことや、みすぼらしい人を指すことなどほぼ共通していることはおもしろい。日本の「かかし」は「案山子」と漢字で書かれるほか、他の国に見られない幾つかの違い、特徴があることに気付かれるだろう。

 

ここでは日本の「案山子と神の関わり」に絞って考えてみたい。

 

案山子は「田の神」ともいわれ、「春、山から山の神が田に降りてきて田の神となり、田を守り、稲作の生育を守り、秋、稲の収穫が終わるとまた山に帰り山の神になる」という伝承がほぼ日本全域に分布している。また、中部地方を中心に十月十日に「案山子揚げ」、「十日夜(とおかんや)」という民俗行事が行われるが、これは、この日に田から案山子を引き揚げ、庭に新しく蓑(みの)と蓑笠(みのかさ)を着けた案山子を作り立て、臼杵(うすきね)や農具を添え、お供えするなどして案山子に感謝を捧げる祭りを行う民俗行事である。

 

また、能登地方の「アエノコト」という民俗行事では、秋の稲の収穫が終わった後、農家の家々で、主人が自分の田から田の神を自宅に招じ入れ、饗応(きょうおう)し今年の稲の収穫に感謝の意を表する。田の神は眼と足が不自由とされ、そのため主人は眼には見えない田の神を、居ますが如く、言葉を以て一つ一つの動作、歩みの都度に助言しながら誘い、入浴、炉端の横座に招き、饗応の際にも一つ一つ料理を説明しながら食事を勧める。この年の田の稔りを感謝し、来る年もまたよろしくと願って送り帰す行事である。

 

田の神は地域によってさまざまで、近畿、中国、四国、九州等では亥(い)の子神、お丑様、サンバイ様を田の神とも呼び、薩摩半島や種子島等では、石像の神様もあり、農神、作神、地神等と呼ぶところもある。いずれにせよ、田の神の常置する祠堂はどこの地域でも、祭りの時だけ迎え、送り帰す。稲作全作業期間を単位とした去来の神の信仰は、田の神に典型的なものとなっている。田の神は、稲作の始まり以降の必要から、それぞれの地で徐々に広まったものであろう。そして、田の神の名が代表的な名称として一般化していったものであろう。

 

案山子のルーツは「古事記伝十二之巻『神代十之巻(かみよのとまきといふまき)』」の〝大国主命の国作り〟の中に出てくるものである。ここを口語訳で確認しておく。

 

「大国主命が出雲の国の美保の岬に居られるとき、波の上を羅摩(がいも)の実で作った舟に乗って、蛾の皮を丸剥ぎに剥いで、それを衣服にして近寄ってくる神があった。そこでその名を質されたけれども、神は答えなかった。また、お供の神たちにお問いになったが、皆『知りません』と答えた。ところが蟇蛙(ひきがえる)が『これは、久延毘古(くえびこ)ならきっと知っておるでしょう』と申したので、すぐに久延毘古を呼んでお尋ねになると、久延毘古は『この神は神産巣日神(かむむすひのかみ)の御子の少名毘古那神(すくなびこな)ですよ』とお答え申し上げた。そこで、大国主命が神産巣日神の御母神(みおやがみ)にそのことを申し上げなさると、御母神は『これは私の子です。多くの子の中で、私の手指の間から漏れ落ちた子たちですよ。それでおまえ(少名毘古那神)は葦原色許男命(あしはらのしこおのみこと)と兄弟となって、その国を作り固めなさい』と仰られた。それから大穴牟遅(おおあなむじ)と少名毘古那神の二柱の神は、互いに協力して葦原中国(あしはらなかつくに)を作り固めたのである。しかし、後にはその少名毘古那神は海のかなたの常世国(とこよのくに)にお渡りになってしまった。さて、少名毘古那神の名を明かし申した、いわゆる久延毘古は、今では山田の曾冨騰(そほど)といわれる神である。この神は歩くことは出来ないが、天下のことは残らず知っている神である」

 

と書かれている(荻原浅男 日本の古典完訳「古事記」 小学館 昭和五十八年をベースに要約)。

曾冨騰は「そほづらかがし」へ、次いで「かかし」から「案山子」へと呼び名は変わっていった。案山子には多くの謎が隠されている。漢字で書かれた理由、弓矢を持つこと、田の神、山の神、さらには学問の神、久延毘古の名称が最も古い呼び名であったことも分かってきた。なぜ、案山子とこれらのことが関係したのであろうか。

 

ここで述べた案山子の謎と神との間には何か大きな問題が関わっているのだ。これを解明すれば、日本人の精神基層文化のいわれを明らかに出来るだろう。

筆者

日本案山子研究会会長 武蔵野久延毘古